建築への扉

建築への扉

2007年11月12日(月)

建築について考えるということは、一体どのような仕方で行われるべきなのだろうか。

恩師増田友也教授は、建築術について、物事を見極めることの大切さを常に言っておられた。それは向こうにあるものをこちらが勝手に考えるということではなく、見つけ出すことである。見つけ出すということは向こうにあるものを目で捕らえるという単純なことではなくて、見あらわすということである。見抜くということである。見るということの意味はそこにある。向こうから現れてくるものを待ち受けるということではなく、見やぶること、見抜くこと、見あらわすこと、そういう仕方でもってそれに出合うということである。 大事にしなければならないのは、まさに自分の目である。そして、その見る目の養い方というのは熟練しかない。それには確固たる論理はない。必要なのは訓練だけである。それは日々の技術的な仕事の積み重ねそのものである。

目を熟練させるということは、プロポーションで言えば柱と梁の関係のmm単位の寸法に思いを込めている、そういう目でもって寸法を身に付けるということだ。それが出来なければ無責任に図面を書いているだけだ。ただ描いているだけでは建築を創っていることにはならないのである。まさに一本の線に我々の責任や存在が問われているのである。

我々はそのような一つ一つに対し、能力を磨いていかなければならない。能力とは簡単に言えば、やり通す意志である。生まれつき天才的な建築家はいないはずである。世阿弥の言葉を借りるとするならば「能をやるより他にない。」という固い決意で建築に向き合向き合うことである。もし、自分のもって生まれた能力について考える暇があるのなら、書いては消し、消しては書きつつ一本でも多くの線を引くことである。

建築について考えるということは一つ一つの扉を自らの意志で開け続けていくことであり、我々は目ざすべき空間創造に向かって、今後も一つ一つの扉をしっかりと開け、そしてそれぞれの空間を見極め続けていきたいものである。