2020年12月24日(木)
恩師、増田友也先生が設計された鳴門市民会館は、築59年を経て閉館されることになった。地元有志による保存活動も実らず、市庁舎とともに新たに建て替えることが決まったのである。アーカイブ展は、この建物が市民とともに歩んだ軌跡を辿り、その記録と記憶を未来へと引き継ぐ最後の機会として開催された。
秋の深まりを感じる11月1日、門下生など建築関係者やこの建物を利用してこられた市民の方々の姿があり、パネル展示を熱心に見ておられる様子から、長年、鳴門の方々に親しまれてきたことが感じられた。「増田友也と鳴門」のコーナーでは、先生が鳴門市民会館(1961年)をはじめ、遺作となった鳴門市文化会館(1982年)に至るまで、約20年の間に設計された実に19もの文教施設が紹介されていた。鳴門市とのご縁、その間の取組み等、増田友也先生の生涯や建築設計で目指していたことが改めて紹介されており、鳴門市民の先生に対する理解の深さや、先生が鳴門市民に愛されていたことを改めて知る機会となった。先生は鳴門海峡を隔てた淡路島の南淡町の生まれであるが、京都大学の先輩である鳴門市長、谷光次氏の先進的な公共施設整備の考えに意気投合され、よきパートナーとしてこの地に多くの建物を残された。私は久しぶりに恩師にお会いする心持ちで、この小さな建物の隅々まで時間をかけてゆっくりと巡り、見て触れて空間を体感し、かけがえのない時間を過ごすことができた。
<アーカイブ展が開催されている鳴門市民会館内部>
私は先生が京都大学の教授を退官される最後の研究生で、鳴門市文化会館の設計変更や阿波町庁舎の設計を担当させていただいた。当時は、明石海峡大橋や鳴門大橋はなく、先生と一緒に車でフェリーを乗り継いで、5時間程かけて京都から鳴門に通った。よく「鳴門に足を向けて寝られない」と口にされていたが、全身全霊で設計に取り組まれていることが感じられた。道中、小鳴門海峡に架かる吊橋の美しい懸垂曲線を眺めては「橋は渡れば技術、眺めれば芸術だよ」と言われたていたことも懐かしく想い出した。
鳴門市文化会館の完成を見ることなく66歳で世を去った増田友也。ちょうど、今の私の年齢である。早い、早すぎるなぁと改めて先生の無念を思った。
1964年の著作「建築のある風景」の中で「風景は、それを眺める人の心像によって変わるものであり、そこに何かを付け加え、又は、何かを取り去れば、おのずから変わるものである。それ故に、建築家が、一つの建物をつくる事によって、新しい風景を創造しているものである。」とあり、風景のもつ深い存在的影響を考察されている。風景を眺めるということは、「人間・建築・自然・歴史」を感じとることであり、先生にとって、これを実感できる場所が「鳴門の風景」だったのではないだろうか。鳴門市文化会館が撫養川のほとりに静かにたたずむ姿は、先生が文化を通じた出会いの場をひとつの風景として創造し、鳴門の人々に語りかけているように見える。
<先生の遺作になった鳴門市文化会館>
また、「人にとって もっとも偉大な師匠というものは その人に何ごとかを教え知らしめられたというような人物の存在ではない そのような師匠が居るという ただそれだけのことで 偉大なのだ 森田先生 谷市長のような存在なのだ」 と1979年のメモにあるが、鳴門市の将来を考え、共に悩み、議論し合った谷市長は、先生にとってかけがえのない師匠だった。と、私は思った。「そのような人がいるという、ただそれだけのこと・・・」まもなく取り壊される建物のシルエットを振り返りながら、私にとって増田友也はまさにそんな師匠だと存在の偉大さに気づかされた一日であった。
<鳴門市民会館(左)と鳴門市役所(正面奥)>