建築への扉

田中光先生のこと

2007年10月04日(木)

田中先生は、京大の増田研究室からイタリアへ留学され、帰国後、金沢工大に助教授として招かれた当時まだ30代半ばのダンデイな先生で、田中研に入ることが我々学生のあこがれであった。

「4回生になってからゼミを希望するのでは遅い」と先輩に言われ、何かきっかけがないものかと思っていたところ、3回生になって、あるデザインコンペの提出を手伝う事で研究室に出入りすることができるようになった。田中先生は、私が最初に出会えた建築家であり、先生のスケッチや話される事すべてが感動の毎日であり、先生の術を真似ることが楽しみであり、そんな日々の中でいよいよ建築の世界へ目覚めていったのを懐かしく思う。

その頃は、毎日遅くまで先生と数人の先輩らと共に、研究室で色々議論をしたり、スケッチをしたものである。先生はアイデアをおきまりのセクションペーパーにロットリグペンでうまくスケッチされ、これと思ったエレベーションはトレペにロットリングペンで描き、マーカーでプレゼンされる。コンセプト創りの得意な先輩はそれを文章にし、私はもっぱら、先生のスケッチを図面化していた。

27年前、田中研では学内の運動公園管理棟を設計をしていた。先生はスケッチから一般図を、どういう訳か私は詳細図を担当することになった。その建物には朝と夜の広間があって、夜の広間には可動式の屋根が架けられていた。そのディテールについて先生のスケッチや説明をもとに訳のわからぬまま書いていた時のことである。私の書いた詳細図を見て、先生は「すごい、すごい」と妙に感心された。私自身は本当にこれでよいのか、うまく動くのか、構造上問題ないのかと心配だらけであったが、誉められたことが嬉しくもあり、少し自信過剰になっていた。結局、この可動屋根は実現しないことなり、残念な反面、内心ほっとしたことを覚えている。