建築への扉

建築の世界に出会い、
この道を歩いていこうと心に決めた。
この道ならどんな時も努力とともに歩くことができる。
出会いを大切に、立ち止まり、考え、悩み、学びながら、
小さな足跡を積み重ねてただひたすらにこの道を歩きつづけようと思う。

出会い(H氏とT氏)

2007年12月16日(日)

誰にも負けない建築への情熱を頼りに私は独立した。24時間、年中、仕事に向き合い、事務所の将来を思い、悪戦苦闘の毎日だったが、同時に充実した夢のある日々でもあった。

設立から7年目に初めて建設省の仕事を受注することができた。それが国立淡路青年の家増築設計。建設省神戸営繕事務所の担当者はT氏だった。
まだ明石海峡大橋が開通していなかった淡路島にT氏とともに何度も何度も通った。退官されたばかりのH氏も「頑張れよ」と一緒に足を運んでアドバイスしてくれた。

H氏とT氏は、私がまだ20代の頃、以前勤めていた事務所で加古川大堰管理棟の設計業務に携わった時の担当官だった人だ。H氏の指導は厳しいものであった。そして私はその厳しさに応えようと寝る間も惜しんで図面を描きながら、いつのまにか、まるで親父のような愛情をその人に感じたのであった。T氏はいつも穏やかで兄のようであった。

約10年ぶりに二人の大先輩と再会し、一緒に仕事ができた喜びは、自分自身想像を超えるものだった。淡路青年の家講師棟は瀬戸内海を臨む国立公園の傾斜地に位置し、景観に調和した建物の美しさと各室からの眺望に工夫をこらした。浴室棟は透き通るような空間構成で日常からの開放感を演出し、島影の重なるイメージを石庭で表現した。
工事が無事竣工し、H氏にT氏にも、館長はじめ青年の家の方々にも喜んでいただくことができ、利用者からも好評を得ていると聞かされてホッと肩をなでおろしたのは昨日の事のようだ。

この仕事をきっかけに、大阪市立大学艇庫など大阪市と建設省(現国土交通省)を中心に公共建築の設計監理業務が徐々に増えていった。思えば若き日のH氏との出会いがまた次の出会いを生んでくれたのである。

今、国も地方も財政難の中、公共建築の新営は著しく減少し、私たち小規模事務所が公共の仕事を受注する機会は少なくなった。しかし、だからこそ思うのである。公共建築が社会に夢を与え、建築技術の向上と環境を先導してきた事実と、設計者が仕事を通じて社会に貢献することをより多く実感しながら研鑚したことを。
建築を取巻く環境は厳しいが、どんな時も初心を忘れず原点に立ち返ってこの道を歩きつづけようと思う。見ていてくださいHさん、Tさん!


創造と想像

2007年12月05日(水)

ものを作るという行為の対極には破壊あるいは消滅という事象がある。建築を創る環境が自由になればなるほど、創り手の責任は大きくなっていく。こうしたいではなく、そのものがどうあるべきかを考え、自分に何ができるかを問うところから、創るという行為は始まる。

教育や福祉の分野で、その設計にかかわる機会を得るということは、これからの教育、これからの福祉について思惟することであり、社会を考えるということにほかならない。建築は物理的にはものであるが、その中であるいはその周りで様々な人間模様が繰りひろげられることを考える時、そのものはそれが個人の住宅であれ、公共の建築であれ、単にものとしてでなく、社会的な空間として存在する。人とともに生き、人とともに成長し、でき得れば人の幸せにいくらかでも寄与することのできる建築、笑顔の似合う建築…。

そのためには例えば、障害をもつということを対岸にいて考えるのではなく、自らの明日に重ねて思惟することが必要だ。社会のあり方をより真剣に考えていくことが求められるのである。創造と想像、この二つの力を与えられた条件にかけ合わせて、いかにあるべきかの答えを導き出すことこそ、これからの創り手の使命であり、建築が社会に発するメッセージではないだろうか。そして、おそらくは無限にある答えの中から、たった一つを選び出すことが私自身の表現なのである。


意識の転機

2007年11月30日(金)

『建築とは何か』ということを真剣に考えもせず、ただきれいな絵を描いているだけでは建築家にはなれない。君はもう来なくていい。今すぐ出て行け!」恩師増田先生を激怒させたのは、私が京大の増田研究室に入って間もない頃であった。

高校生のとき建築に魅せられて、自分なりに建築に取り組んできたつもりであった私は、その日、アトリエのメンバーが集まり団らんする中で、突然、「君、建築とは何か言ってみろ」と先生に問われ、何をどう話せばよいのかまとまりのつかぬまま、それでも精一杯答えたのであった。そして前述のとおり「出て行け!」と言われてしまった。何が悪かったのか、どうすれば良いのか。途方に暮れながら、その場を去るわけにも行かず、朝方、とぼとぼと下宿に帰ったのであった。翌日、アトリエに行ってよいものかどうか迷いながらも「行くしかない」と自分に言い聞かせ、重い足取りで出かけていったことを昨日のことのように思い出す。

結局 2年間、増田先生にお世話になった私は、出会いがそんな風だっただけに浮ついた気持ちなど微塵もない強い緊張感の中で色々なことを教わり勉強する事ができた。設計するということは、デザインや形が先にあってそこに強引に何かを押し込めていくのではなくて、そこにいる一人ひとりの個性や感性や感情を捉え、空間の中で展開される人間の営みそのものを創造していくことが基本となる。

アトリエを後にして早24年、大手事務所に就職し、思うところあって独立し、様々な業務にかかわり、色々なことを考えながらやって来た。近頃ようやく当時先生の言われたことが何なのか、少しずつわかってきたように思う。建築に夢を見ていた私にとって、あの日が最初の試練の扉であった。それ以来、随分と奥深い部屋にさまよいながら悪戦苦闘の毎日であるが、あの扉が意識の転機になったと振り返る。そして、すでに次の目指すべき扉が目の前に見えている。


ものを創る喜び

2007年11月14日(水)

設計のプロセスの中でいかに社会と対話しているか、常に考えつつ創っているか、自問自答する日々が続いている。社会情勢は厳しさを増す一方だが私はこの仕事を選び、建築を通じて社会に関わり貢献していけることの幸福を改めて感じている。

ものを創る喜びは奥深い。その事に力を集中し、その過程を楽しむ。創ることの喜びにじっくりと浸ることができればこんな幸せはない。(正直なところ私自身は、あれこれと想いを巡らせながら手を動かし、スケッチをしている時、最高の幸福感を得ている。)そして、社会の将来やあり方ををどう捉えどう見定めるのか、常に新鮮な視点で見つめ考えていくことを心掛けている。既存の価値観の延長線上にある思考だけでは行き詰まってしまうことも、自らの心を素直に開け放ち、自由で限りない可能性を秘めた人の心に真摯に向き合っていくことで道が見えてくる。

人が人を思い思いやることの幸福をしっかりと受けとめながら、多様化する建築の時代にあって、建築することが心から好きで、この仕事に誇りを持ち、未来に向かって強い意志で立ち向かっていく人間でありたいと思う。 そして、スペースクリエーションがそういう人達の集まる組識であることを目指したい。


建築への扉

2007年11月12日(月)

建築について考えるということは、一体どのような仕方で行われるべきなのだろうか。

恩師増田友也教授は、建築術について、物事を見極めることの大切さを常に言っておられた。それは向こうにあるものをこちらが勝手に考えるということではなく、見つけ出すことである。見つけ出すということは向こうにあるものを目で捕らえるという単純なことではなくて、見あらわすということである。見抜くということである。見るということの意味はそこにある。向こうから現れてくるものを待ち受けるということではなく、見やぶること、見抜くこと、見あらわすこと、そういう仕方でもってそれに出合うということである。 大事にしなければならないのは、まさに自分の目である。そして、その見る目の養い方というのは熟練しかない。それには確固たる論理はない。必要なのは訓練だけである。それは日々の技術的な仕事の積み重ねそのものである。

目を熟練させるということは、プロポーションで言えば柱と梁の関係のmm単位の寸法に思いを込めている、そういう目でもって寸法を身に付けるということだ。それが出来なければ無責任に図面を書いているだけだ。ただ描いているだけでは建築を創っていることにはならないのである。まさに一本の線に我々の責任や存在が問われているのである。

我々はそのような一つ一つに対し、能力を磨いていかなければならない。能力とは簡単に言えば、やり通す意志である。生まれつき天才的な建築家はいないはずである。世阿弥の言葉を借りるとするならば「能をやるより他にない。」という固い決意で建築に向き合向き合うことである。もし、自分のもって生まれた能力について考える暇があるのなら、書いては消し、消しては書きつつ一本でも多くの線を引くことである。

建築について考えるということは一つ一つの扉を自らの意志で開け続けていくことであり、我々は目ざすべき空間創造に向かって、今後も一つ一つの扉をしっかりと開け、そしてそれぞれの空間を見極め続けていきたいものである。